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聖ベネディクト・ヨゼフ・ラブル証聖者  St. Benedictus Joseph Labre C.  記念日 4月 17日



 18世紀の中頃、全欧州の上流社会には一般に奢侈享楽の風がみなぎり、わけてもフランス国王ルイ14世や同15世、その貴族達は贅の限りを尽くしたものであったが、聖ベネディクト・ヨゼフ・ラブルはかかる時代に生まれて珍しくも清貧の聖さを知っていた一人である。

 彼は1748年3月26日、フランスのアメット村にラブル家十五子中の長男として生まれた。幼い時から智慧もすぐれ信心も深かったので、両親は将来聖職者にしようと思い、その教育を彼の伯父にあたるある司祭に頼んだ。彼はこの人に仕込まれたが、どちらかと言えば学問よりも信心の業を好み、暇さえあれば聖堂にもうでて祈りを献げ、また貧しい人々がすきで喜んでこれと交わるという風であった。
 その内村に伝染病が流行すると、彼は博愛の心から憐れな患者の看護に力を尽くしたが、伯父も不幸感染発病し遂に黄泉の客となった。そこでヨゼフは司祭になる為の勉強を中止し、指導者となる志を立て、最も厳しい苦行を行うような修道院を選んで入院の申し込みをしてみたが、ある時は健康不十分の故をもって断られ、ある時は入院後自分に適せぬ所であることを悟って自発的に退院しなどして、なかなかその意を果たさなかった。

 かように修道方面の召命を試みること三度、更に聖霊の御光を祈り求めつつ主の御旨のある所を尋ね、ついに自分は在俗のまま世間の快楽を捨て、清貧の生活を営み道を修めようと決心すると、たちまち不思議な平安が心に充ちわたるのを覚えた。
 それからヨゼフ・ラブルは身に裾長の粗服をまとい、腰に縄の帯をしめ、胸に十字架を下げ、首にロザリオをかけ、背に袋を負い、祈りや聖歌を口ずさみながら、フランス、スペイン、ドイツ、スイス、イタリアなどの霊場参詣を志して巡礼の旅に上った。彼は大抵先々に祝祭のあるような日を選んで行き、一日中そこの聖堂、御聖体又は聖像の前に跪いて祈るのであった。はてしなき旅路に、風雨にさらされた衣服がぼろと破れ果てても、彼は更にそれを着替えようとはしなかった。そしてその見窄らしい姿の故に、他人から狂人のように貶められ嗤われると、却って主の為苦しむ機会を得たことを喜び、迫害者にもいかにも敬虔な態度で接した。されば世人も仕舞いには彼を軽蔑するどころか、むしろ尊敬するようにさえなったのである。
 彼の背にしている袋の中には、聖書、聖務日祷書の他に、パンが二切れ、三切れ入っているに過ぎなかった。それがつまりラブル家の嫡男の全財産であったのである。彼は余分の施しを得たりすると、すぐに途で逢う乞食達に与えた。そして彼等と共に道端に腰をおろしては嬉々として語り合い、霊魂上、宗教上の問題に就いて説き聞かすのであった。彼は度々他人が投げすてたものを拾って自分の食物とし、夜ともなれば空き家や城跡、それもなければ樹下石上を宿とした。

 ベネディクト・ヨゼフはかように旅から旅へと渡り歩いても、折りさえあれば愛の業を心がけていた。行き倒れでもあると、それが異国の人であっても懇ろに看護してやる、悩める者に逢えば言葉を尽くして慰める、殊に一椀の食べ物、一夜の宿を恵んでくれた人々に対しては、報恩の意味からも、天主の豊かな御祝福を祈らぬ事はなかった。
 かれが最も心引かれた巡礼地は、聖家族の御住居が保存されているロレットであった。その証拠に彼は13年間に11回もその地を訪れている。それに次いでは清貧の使徒聖フランシスコが生活していたアッシジも彼の憧れの的であった。彼は、またローマを第二の故郷の如く愛し、わけても昔殉教者達が、或いは猛獣と闘い、或いは火あぶりになり、尊き生命を天主に献げた闘技場とその付近にある聖母の聖堂を好んだ。彼はどこかの聖堂に御聖体礼拝が行われていると聞くと、早速そこへ行って式にあずかり、御聖体の主を仰ぎながら祈りに沈み時には一日中そのままにしていることも珍しくなかった。人々は彼が四十時間の御聖体拝領の行われる時には必ず聖堂に来る所から、「四十時間礼拝の貧者」とあだ名した。
 紀元1783年の聖週間に、聖母マリアの聖堂で四十時間の御聖体礼拝が行われた時であった、例によって杖に縋ってそこに参詣したヨゼフ・ラブルは火曜一日を祈りに過ごし、翌水曜日にも拝礼に行ったが、祭壇の前で卒倒し、一度気づいて聖堂を出ようとして、玄関前の石段の所でまた気を失ってしまった。それを見かけたザッカレリという近所の肉屋は可哀想に思って彼を我が家に運び、司祭をも呼び迎えてやった。為にヨゼフは終油の秘跡を受ける事も出来、心にかかる雲もなく、その晩天国さして旅立った。それは4月17日のことで、行年僅かに35歳であった。
 その事が伝わるや、忽ち「聖人がなくなられた」という噂が立ち、近在近郷から夥しい群衆が押し掛け、軍隊が出動して警戒に当たるという騒ぎの中にベネディクト・ヨゼフ、ラブルの遺骸は厳かに埋葬された。
 彼が列聖されたのは、それから凡そ百年後1881年12月8日のことで、あたかも聖母無原罪の大祝日に当たっていた。

教訓

 一生を貧しい巡礼に終始した聖ベネディクト・ヨゼフ・ラブルの生活は、誰でも真似るという訳にはゆかぬ。しかしその他人に迷惑をかけずして、却って及ぶ限り人々を精神的にも物質的にも助けようと努めた感ずべき態度は十分学ぶに足るものがある。殊に最も倣うべきは、清貧の精神即ち物質よりも霊的事物を重んじたその心がけである。